2022年3月号(181号)

今後の入試の決め手は? 輿石正 

 

 今日、二月二十五日、高3生・大受生は、国公立大二次試験(一般入試)を受けに行った。ナゴヨビ生は十六名全員が受験し、本土の大学を受けた生徒四人は、昨日までに飛行機で飛んだ。沖縄は久しぶりの晴れ日和だったが、本土の方はどうだったか。

 例年のことだが、二次試験(一般入試)の日に、私はナゴヨビから受験した生徒の名前を声にして呼ぶ。順番を変えて試験の終わる頃までに最低4回は呼びかける。一人一人の顔やしぐさが呼ぶたびに少しずつ変わって頭にうかんでくる。彼ら彼女らと過ごした一年弱はそれなりに重い。私の年齢がその重さをいっそう重くさせる。よく一年間体がもったな、と思う。たかが受験、されど受験、なのである。

 

 ほっとする間もなく、次の受験生たちの足音に聞き耳をたてる私がいる。五十年も続く私のライフサイクルである。

 ところで、今年度の大学受験をしめるにあたって、ナゴヨビはこの一年間で何を課題として受けとったのか。その課題は、「結果オーライ」で片づけられない大事なものだ。特に予備校にとっては、この課題の把握こそが自らの生きのこりをかけたものになる。課題を一つだけあげてみる。

 

(1)各教科とも、「文章読解こそがまずありき」が大原則。

 

 従来のように、暗記した公式的道具を使っての「処理」を求めるだけでなく、出題者の設定した状況を文章からまず読みとることが求められる。従って、いきおい出題文が長くなり、読みとるスタミナが必要となる。この「読解のスタミナ」と、読みとったものを整理・つなげていくこと・今後の大学入試の方向は、ほぼこの線でいくことがはっきりしてきた。もう一度確認しておくと。各教科とも、「処理技術」をみがくことと、それらの技術が使われる〈場〉を読みとること、この両方が求められるということである。

 

 ではナゴヨビとしてその課題にどう向きあい、カリキュラムのなかに生かすのか。結論から言えば、「国語力の強化」と、「考える素材としての教養力のアップ」である。文字で書けば、ずいぶん簡単そうだが、これはよほど意図的かつ持続的にやらないと身につかない。学校の方では従来型の指導を続けていて、中間テスト・期末テストなどを見ても、まったく今までと変わっていない。その状況のなかで果たして予備校でのこうした指導に生徒はついてくるだろうか不安はある。しかし、時代は大きくカジを切ってしまっている。大学入試は、沖縄だけではなく、いわば全国的なわけで、ナゴヨビとしても、その方向に向かいたい。読んで、考えて、整理して、その上で処理にむかう。楽しみじゃないですか?

 

 

2021年11月号(177号)

「失敗」にもっともっと愛情を 輿石正 

 

 全国最大規模の「大学受験」のための公開模試が、先週の日曜日十月二十四日に行われた。受験の前哨戦と位置づけられるこの「第三回全統共通テスト模試」は、全国五十万人の大学受験生が照準をあわせる模試である。ナゴヨビの大受生も全員受けた。

 

 第三回公開模試がなぜこれだけの大切な位置を占めるのか。そこが大事だ。

一.テスト結果に対する「志望校判定」の信頼度が高いこと。

二.本番までの残された二ヶ月を具体的にどうすごすか、各教科ごとの細かなチェックをする最後の資料であること。

 

 今回の模試の結果得点は、もう変えようがない。だから、点数としての結果の話はもういい。英語が悪かったとかいう話は封印した方がいい。まるで、自分が取った点数でないかのように責任転嫁したり、言い訳するのはきっぱりやめた方がいい。自分がいっしょうけんめいやって取った点数なのです。別の人物が取った点数で、本来の自分の点数ではない、なんて、かりそめにも思ってはダメです。志望校の判定に対しても、A判定に受かれることもD判定に落胆することも共にダメです。二か月後の本番に向けて、未来に向けて、最後のリスタートの新たな気持ちを汚してしまうからです。第三回公開模試の位置づけが読めない生徒に未来は宿らないのです。

 毎年必ずおきる入試合否の逆転は、今年もきっとやってきます。すなわち、「A判定」の生徒が落ちて「D判定」の生徒が合格するという現象です。「A判定」をおみくじみたいにとらえて、二ヶ月後の最後の充実期を、なんとなくすごしてしまう生徒が必ずいる、ということ。「D判定」で危機感が身にせまって、それぞれの科目の細かな点検と反復をして逆転を勝ち取る生徒がいる、ということです。

 

 大学受験は、これからが正当の勝負ところなのです。自分の弱さ、弱点のなかにこそ未来創造の大切な<芽>があることに気づくことが求められています。まさに<人間力>の勝負のときが、残された二ヶ月なのです。ドキドキ・ワクワクの本当の勝負のときです。その出発のために、提案しておきたいことを記しておきます。

 

 今回の試験の、未来に向けた反省点として、各教科とも全体の反省(時間の使い方や解答法)と、まちがい問題を取り出して、そこに潜む「失敗の原因」を書き出してみる。一日に一教科ずつ、試験の時のことを思い出しながら自分の心の動きにそって探しだす。アセリや読みちがえも書き出してみる。書き出しながら、自分と向きあう。とことん向きあうことが何よりも大切です。「失敗」を掘り下げることだけが「成功」への通路なのです。

 

 人は失敗をする動物です。どんな動物も失敗から学びそれをのりこえて生きながらえるのです。どうぞ「失敗」を大事にして未来に生かしてください。

 

2021年10月号(176号)

「詩になることば」 輿石正 

 

  一九七八年七月、静岡県浜松市で詩誌『遠州灘』が発行された。まったく無名の詩誌に八人の浜松在住の人々が詩をよせた。

 そのなかに、一九三三年生まれの四十五歳の清水とき枝の詩がある。紹介したい。

 

 遠い海

 

 寒い日の午后から出てくる / あの黒く重たい雪雲が / 胸の中に居坐ってしまった昼 /

 しきりに海へ行きたい / 私の中に流れ続ける海の色は / 少しも変わっていないのに /

 夜更けに聞いた海鳴りが / 東名高速を行く車の流れだと / 解ったあの朝から /

 取り返しのつかない変化があったのでは / そんな不安が渦巻いている

 

 (ここから後は、初出形式で示す)

 

 海に近いところで暮らしたかった

 歩いて十分 二十分 いえ三十分

 せめて潮騒の聞こえる所に

 過ぎてしまった此の歳月は

 どうすることもできない

 突っ伏して

 海の色を 波の色を

 今一度この手につかみたいと

 焼けるような焦りが

 夫も 子供たちもすべてを

 遠くへ押しやってしまう一刻

 

 私はこの詩を、芸風書院版の『年間現代詩集78』の中で見つけた。この詩集は、職業詩人、タレント詩人と呼ばれる人々の作品は収録せず、その年度に発行された全国各地の同人誌、詩集のなかから選んで編集したものである。したがって、無名の人たちばかりが集められている。

 ひと晩に五篇の詩だけを読むことにして二ヶ月かけて読みおえた。途中で、安森ソノ子の名を見つけてびっくりした。京都の詩人で私より六つばかり上の知人である。予備校の図書室にも安森さんの詩は三つほどある。

 清水とき枝さんのことはまったく知らない。三八五篇全部を読み終えて、私は清水とき枝さんの、「遠い海」を読み返してみたいと思った。音にして読み、黙して読み、また音にして読んだ。波の音を追いかけ、母として妻として生きている四十五歳の女性が、焼けるような焦りを胸に、浪うちぎわを走る姿が少し見えた。目の前の現実、子供の世話をし、夫の面倒をみながら、自分の内側の思いを家族の誰にも伝えきれない。家族が嫌いなわけではない。そつなく日常をこなすことも嫌いなわけではない。しかし、そこから少しはみ出たところにいる自分の確かさもいとほしい。「夫も 子供たちもすべてを/遠くに押しやってしまう一刻」。その「一刻」を捨てることはできない。家族のだれにも言えないその思いは、「遠い海」と題して、詩のことばとなっていくしかなかったか。

 無名の詩人のなかに何かを見つけたときの喜びは、何にもかえがたい。<他者>の発見を通して、<自分>を知る喜びといっていいのだろう。

 

2021年7月号(173号)

「ネットいじめは私たちの顔」 輿石正 

 

  AI時代の現代、私たちはその利便性を無意識に活用して毎日をすごしている。私たちの日々はA・Iぬきにはもはや成立していない、と言った方がいい。

 社会の「病理」のなかにも、この利便性は生きている。A・Iは、日々社会の病理・暗部をも深めながら学習-ディープ・ラーニング-している。

 

 先日、ネット上でひとりの女性アナウンサーに対して執拗な誹謗・中傷の書き込みをしていた人のテレビ番組を見た。国家公務員の四十代の男性であった。被害者の女性の執念の追跡の二年後に、逮捕された。和解(示談)を求めて被害者の女性に詫びを入れる場に、この男性は初老の両親をともなって現れた。まず母親が謝り、両親にはさまれた四十代の男性は、事件の動機をきかれたとき、こう言った。

 「正義感でやった。私が裁いてやると思ったので。」

 恨みやいじめの意識ではなく、「正義」の意識にうらうちされて、毎日帰宅後に「首吊れ!」、「まだ生きてんのか」と、書き込みを続けていた。女性は、髪をそり仏門にはいって尼として生きのびた。

 この番組は、ここで終わらなかった。

 いったい、いたってごく普通のサラリーマンが、なぜ「正義感」で相手をとことん追い込んだのか、そのメカニズムを生理学的に切り込んでいった。

 「後ろめたさをもった攻撃」ではなく、「正義感にうらうちされた攻撃」には、独特の生理現象がおきているというわけである。「正義感にうらうちされた攻撃」は、ドーパミンという「快楽物質」によって、快楽の反復を求めるサイクルを形づくる、という。だから攻撃はやむことはない。「正義感」に支えられているから、野ばなしの快楽追及が可能だ、というのである。ネット社会という「匿名性」が、この快楽追及をあとおししている。

 

 尼姿の被害者と面どおしをした四十代の男性から「正義感」は消えることはないだろう。

 この「正義感」ということばは、さまざまな装飾をほどこされて個々人の中で、また組織・社会・国家の中で別のことばとして引きとられていく。「正義感」から放たれた矢は、「悪意」から放たれた矢よりも、深くそして長期にわたって相手を痛めつづけることになる。AIは、そういった「痛めつけ方」を深く学習し、使われるチャンスを待っている。

 

2021年5月号(171号)

「忘れられない教え子」 輿石正 

 

 もう二十五・六年になるだろうか。

 学生服がよく似合った北山高校の男の生徒・S君のことを、私個人の備忘録として記す。

 

 角ばった顔型。八重歯で、笑い顔がなんとも印象的な人だった。その笑いは、独りぼっちの笑い、とでも言ったらいいのだろうか、見た者に余韻を少しだけ残す、そんな笑顔だった。破顔一笑と一線を画す者だった。

 S君は、双子の弟にあたり、兄ちゃんの方は、うまく世のなかを泳いでいける人だった。それにしても、二十年以上もたつのに、私のS君の像は少しも色あせずに私につきまとっている。彼の皮フは、どこかに小さな触手のような突起がついていて、ことばや作為を超えたものをとらえて離さなかった。だから、ひかえ目な笑いとなる。私はその笑いに何度も何度も救われた。

 どんな用事であれ、私は今帰仁村に入ると必ずS君の面影を追っている。追った、というより、気がつくとS君をさがしている私自身に気がつくということだ。

 

 二週間ほど前、名護市のある病院で、私は見知らぬ壮年の男性に声をかけられた。病院の待合い室でのことだ。新聞を読んでいた私は、この病院によくある奇声、怒声、叫声の種と思いながら顔をあげて、声の主らしいその顔を見た。誰だかわからない。マスク越しではあったが暗く沈んだ顔だった。とまどう私の前に立って、その人は涙をこぼした。マスクを取って手を私のほうにだして、笑顔をこしらえた。「Sだ」。私の体は硬直した。Sの手が、こぶしの形のままで顔をぬぐった。「こしいし、センセイ」と区切るように声を出した。

 二十五、六年ぶりのS君は、もう初老の男を思わせるほどに老けていた。私は座席をズラしてSのすわる所をあけた。何をしていいのか、何をいったらいいのか、全くわからなかった。スローモーションのようにSがすわった時、待合室のスピーカーから、私の名が呼ばれ4番診察室に入るようにとの指示が出た。私はまるで逃げるようにカバンを体の前にもって立った。Sも立った。眼はぬれたままだった。とっさに私はSの肩に手をのばして、自分でもびっくりするほどの大きな声で「な・つ・か・し・い!」と声にした。恥ずかしさに背中を押されて私は4番診察室に入った。ふりむかなかった。

 担当医がその日からかわり、その女医さんの前にすわった。女医さんの話は耳に入らず私は何も話さなかった。三分ぐらいしただろうか、立ちあがりながら私は、「ありがとうございました」とだけ言って部屋を出た。Sを追った。玄関の外までまわったが、どこにもその姿はなかった。「入院しているな」と思った。ふきぬけの待合室の天井を見あげて、Sの入院を深く納得した。どこか自分の分身のような気がしてならなかった。

 

 今の世のなかS君のような心の持ち主は、うまく生きていけないのだろう。ヒラヒラと泳ぐように生きていかなくてはやっていけない。

 沖縄に移住して三十三年。私の記憶の底にただひとり残り続けたSは、ハジカサーのあの「S君」のままで生きていく。彼の心のどこかに、私がいてくれたら、こんなに嬉しいことはない。

2021年2月号(169号)

「大きなうねりの中で」  輿石正

 

 推薦入試⇒私大・看護入試⇒共通テスト⇒国・公立大二次試験、と目まぐるしく展開される大学入学試験。予備校という業務のかわることのない内部風景です。

 現在進行形で国・公立二次対策をほぼ連日でやっています。私大受験生もがんばっています。

 

 今年度から新たに導入された「大学入試共通テスト」は、今後の日本の大学入学試験のひとつの方向性を示すものといえます。これは単に大学入試内容・形式の変更にとどまるものではありません。日本社会が、このグローバル時代においてどのような国づくりをしていかねばならないかを示しているものです。今後は、今回の変更をさらに徹底化し、私大入試・推薦入試にも反映されるものとなることでしょう。

 「共通テスト」の大きな<ねらい>はなんであったのか。

 端的に言うと、「パターン当てはめ方式から、読んで・整理して・考えて・表現する方式」への変更です。「暗記中心」から「思考力中心」へのシフトとも言っていいでしょう。今までも何回もこうしたシフトの必要性がさけばれてきましたが、いよいよ待ったなし、となったわけです。

 ただ、今回おきた「科目間の得点調整」ー化学・物理・現代社会などでなされた得点加算調整ーに象徴されたように、まだまだ、入学選抜方式としては改良の余地があります。

 いずれにしても「覚える力」を「考える力」につなげていくことが求められていくことはまちがいありません。

 

 ナゴヨビとしても、時代のニーズにあわせて、柔軟かつ大胆に変革をしていく覚悟です。デジタル教材の導入、教育ネット環境のシステム化、コロナ時代の保護者との情報共有化、などなど課題は山積みです。

 

 今回の「特集号」は、新学期までの大きな流れをまず保護者の皆さまにつかんでいただくためのものです。じっくり目をとおしてみてください。

2020年 7月号(167号)

「『岸辺の杙』余滴」   輿石正 

 

 在日韓国人でハンセン病の患者であった崔南龍(チェ・ナムヨン)の八十年をとどったドキュメンタリー映画『岸辺の杙』が、ようやう完成した。あしかけ七年かかった。

 

 終わってみると、映画には盛り込めなかった所が気になってしょうがない。シナリオ作りの段階で覚悟をきめてやっとことなのだが、なんだかすまないな、という気持ちが消せない。百五分ほどの映画だが、崔さんの八十年を追うには短すぎた。

 「余滴」として記しておいて、後年の人の参考になればと思う。

 

 崔さんが、隔離収容された施設は、岡山県瀬戸内の長島になる邑久光明園(国立)である。その長島にはもう一つの、ハンセン病療養所・長島愛生園(日本最初の国立ハンセン病療養所)がある。距離にして五・六キロしか離れていない。長島愛生園には、全国十三のハンセン病療養所でただ一つだけある「青い鳥楽団」というハーモニカ楽団があった。療養所外でも演奏活動をおこなった本格的ハーモニカ楽団である。『岸辺の杙』にも登場する。そこの楽団長の近藤宏一は、詩人の小島浩二と同一人物なのだが、彼は日本で初めて、舌読用の楽譜を考案した人であった。「舌読」というのは、ハンセン病患者は抹消神経の麻痺のため指先で読む「点字」が読めない。もちろん患者は全失明である。ものの感触を確かめられる最後の部位が「舌」となる、その舌を使って読むことを「舌読」という。近藤宏一は「舌読作曲家」であったし、確かなハーモニカ奏者であった。

 私は、山陽テレビ制作の近藤宏一のフイルムをすり切れるほど見聞した。私が、光明園や愛生園に行き始めたころには、近藤さんは他界されていた。

 「舌読」という二文字に、人間の生のすごさを感じる。舌を通して文字にふれ、音符をたどり、他者と交わろうとするそのエネルギー。こんな小さな舌という部位をとおして、生命の深みと重みに通じようとする。「らい者の生命」の奥ゆきに触れた気がする。

 

 今回の『岸辺の杙』は、老いたる私に活力を与えた。予備校での授業が終わってから、十一時頃から翌一時と決めて日々努力した。ナレーションの吹込みに一番苦労し、授業でかすれた喉を水でうるおすのだが、うまくいかない。かすれ声も味だと思って収録した。

 

 「余滴」として記しておかなくてはならないことがもう一つある。私はハングルが全く読めない。崔さんも在日二世なのでハングルがダメで、こてこての関西弁で話に応じてくれた。撮影で二回韓国に行ったときは、英語で用をたしたが、ハングルが読めない自分を恥じた。おとなりの国のことばが読めず話せずの人間を恥じた。メモ用紙に漢字を書いて見せたら笑われた。私の朝鮮半島の知識・教養はこの程度のもので、その反動が『岸辺の杙』にあらわれていないことを願う。現在の日本という国の歪みを私も持っていて、ハングルを味わえないこの貧しさは、覆い隠せない事実なのである。